沖縄県那覇市の桜坂劇場で「ドキュメント 灰野敬二」という映画を観ました。
出演:灰野敬二 不失者
高橋幾郎/ナスノミツル/工藤冬里/
亀川千代/Ryosuke Kiyasu ほか
監督・編集:白尾一博
撮影監督:与那覇政之
撮影監督の人、沖縄出身かな?
灰野敬二。ジョン・ゾーンやソニック・ユースから支持を受けてるのか。
映像と音楽を一体化させたパフォーマンスのようでした。
ジョン・ゾーンは音だけ聞いても面白かったのですが、映像はどうなんでしょう。
ジョン・ゾーンのCDを持ってはいますが、映像でみたことはなかったので、、、さっきYoutubeでちょっとだけ観てみました。
耳障り(苦笑)
ノイズ系のものは聞くのに若干のパワーが必要なのか、気分が乗らないときはあまり聞きたくないかもしれませんね(^^;
で、ドキュメント 灰野敬二。
シンバルみたいな楽器でパフォーマンスを作っている過程などをドキュメントしているようです。
出来上がったものはかっこいいような感じで、音がなく証明やカメラワークだけでも何かが伝わってくるような、気がするような気がするような出来栄え。
ただ。
デジタルの0と1では表現できないもの、というようなものを重視しているような印象を受けたのですが、それはどうかと思い。
というのは、0と1の間にあるもの、というのは、0と1の間を分類できていないだけで、0と1の間を更に細分化して分類できれば結局0と1の世界になると思うんですよね。素粒子的に。
0と1。(何かが)あるかないか。
細かな「あるかないか」が重ね合わさって現象が表面化するので、0と1の間、というのは単に細かすぎて分類しきれていないだけの状態ではないでしょうか、ということだと思ってしまいました。
今回の映画でも、結局、照明の人、カメラの人、音を奏でる人(灰野敬二)、それぞれ、このタイミングでこうしてくれ、ってことを灰野敬二が結局言っていたように思う。ただ、それを数値化、楽譜化する術が見つからないので0と1の間、と言っていたような気がした。
結局、(もちろん、即興的な要素があってもいいとは思うが)灰野敬二さんが求める状態を照明、カメラが再現したのではないか。ということは、このタイミングでカメラを引く、このタイミングで照明を一瞬落とす、といったことを行うわけで、極端な言い方をすれば、そのタイミングと行うべきことがわかれば、それは機械でもできる、0と1の世界のことになるのではないか、ということ。
そこに感情なりの熱さを含めるということになると話はさらにややこしくなるが、少なくとも生物学的には人間の組成もだいぶわかってきているわけで、遠い将来には精神の組成もわかってくるのではないかな、なんて思ったり。
とすると、人間が通常作り出すものは再現可能なもの、0と1で表現できるもの、なんじゃないかなぁなんて思ったり。
もちろん、現実問題としてまったく同じ音を作り出すことは不可能に近いんでしょうけど。
既成なものへの反発というのもあるようなのですが、そもそも既成なものへ反発するということ自体が既成に囚われていることにならないか(普通の大人は囚われざるを得ないとは思いますけど)。
であれば、既成なものというのは反発するものではなく、検証するものであったりなかったものとして考えてみるものであったりとして捉えたほうが自由度が増すような気がします。
とりとめなくなってきたので、最後に一つ。
灰野敬二さんは長髪がお好きなようですが、私は短髪のほうが好きです(^^)