あしたのパスタはアルデンテ

沖縄・那覇の桜坂劇場で「あしたのパスタはアルデンテ」という映画を見ました。
イタリア映画。
「2010年 世界でいちばん愛されたイタリア映画」
という触れ込みです。

感想。
別に。

ニコール・グリマウドという女優はけっこうよかったかもですが、イタリアってマフィア社会?というかなんというかファミリーを大事にするのかな、と思った感じです。ちなみに、「あしたのパスタはアルデンテ」の「アルデンテ」は、

“アルデンテ”はパスタの理想的な茹で方の呼称。イタリア語の本来の意味は「歯に当たる」「歯応えのある」という意味。茹で過ぎてしまえば軟らかになってまずくなり、早く引きあげ過ぎると固くて食べられたものではない。パスタも家族も理想的にするのはなかなか難しい。明日こそ、理想的なアルデンテを目指しましょう。

フライヤーより。

「あしたのパスタはアルデンテ」という映画の中でゲイの話が出てきていることと、最近福田沙紀剛力彩芽ISというテレビをちらっと見たので、ちょっと性同一性障害について私見を。
無知な部分がある点、ご了承ください。

ISは身体的に判断が難しいという点があるようなのでだいぶ異なると思うのですが、例えば、身体的に男性だけど心は女性(逆の場合も同様)、というのは、どうゆうことか今一つわからないんですね。
そもそも心が男性だとか心が女性だとかいうのは人間が作り出した区別なような気がするんですね。身体的以外に社会的に「男性」「女性」を定義しちゃっているところが今一つしっくりこないんです。
社会的な定義というものは、そもそも人間が勝手に作りだしたものだから、壊すことも勝手にできると思うんですね。
男性が男性を好きになっても問題はないような気がするし、女性が女性を好きになっても問題はないような気がするんですね。それで子孫が残せるかどうかは別として。
最近は多様性の重要性がだいぶ取沙汰されていますし、それも一つの個性ということでいいと思うんです。

何が言いたいかというと、例えば、身体的に男性だけど心は女性、という場合、それが性同一性障害なわけですよね、たぶん。。。
だけど、身体的に男性で男性に尽くしたいとか可愛がられたいとかフェミニンな恰好が好きとかそういう話でいいと思うんです。別に同一性がどうとかというのは同一でなければならないという固定観念から来ているものにすぎないような気がするんです。
そもそも「男性」「女性」の社会的定義すらあやふやだと思うんです。現代において女性っぽいと思われていることが、過去や未来において女性っぽいことと認識されているかどうかはわからないこと、流動的なことだと思うんですね。なので、「心は女性」という感性が心情的にわかるのですが、厳密にはよくわからないんですね。。。
同一であろうがなかろうが、それに応じて生活していけばいいだけで、あまり関係ないのでは、と思ってしまうんですね。

ただ。これは机上の空論で社会生活を営む上で大きな困難を伴うことが多いかもしれません。しかし、それは社会が未熟過ぎるのではないか、と思っています。社会を構成するのは人間なのですが、日本の社会は政治屋を見てもよくわかるようにとても。。。そして、そんな政治屋を選んでいるのが私たちという現状。。。

とりとめがなくなってしまいました。。。
上記はすべて妄想なので、不快な思いをされた方がいらっしゃいましたら本当にごめんなさい。
躁うつ病なども脳内とかの物質量が大多数の方々と違っていることが原因であるというような話もありますので、私が知らないだけで性同一性障害の方々にもそのような科学的な違いがあるかもしれません。

—————————
最近ちょっと映画づいてます。
北乃きいが出ていたアンフェア(録画したもの)
あっ、これ、今サイトを見てみたら、映画じゃなくてスペシャルドラマみたいでしたね(^^;
北乃きい、かわいい、というかとてもイイ感じですね。

そして、、、「サラリーマンNEO」「あしたが消える」「インサイドジョブ」と見ましたので順次感想をアップしようかと思っています。録画したものだと、ジョン・トラボルタの「ソード・フィッシュ」をまだ見てません。

あしたのパスタはアルデンテ@ぴあ映画生活

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA